目次
丹羽教授の畜産に関する研究教育活動は、昭和11年(1936年)4月から平成3年(1991年)3月現在に至る。55年間の長きに及び、その生涯を家畜の人工授精(特に豚)・受精卵移植・家畜の改良・繁殖・育種(産肉能力検定)と多方面に渡っての研究・教育、技術指導に終始したといってもよいだろう。そして、その前半約1/2の期間(29年間)は農林省畜産試験場、同農業技術研究所家畜部における研究並びに技術指導活動であり、後半約1/2の期間(26年間)は大学における教育研究活動であった。
【研究活動前半(約30年間) 農林省畜産試験場時代】
1936年4月から1965年6月
農林省畜産試験場及び農業技術研究所畜産部において、昭和12年頃(場長 釘本昌二博士)から人工授精に関する研究が精力的に進められていた。そんな中、丹羽太左衛門は「豚の改良・繁殖並びに育種に関する研究」に取り組む。
しかし自身は、戦争末期の昭和19年3月に1ヵ月の教育招集、さらに同年8月から終戦後の昭和21年6月まで臨時招集を受け研究生活は中断した。幸い命あって昭和21年6月、苦労の末中支より内地帰還を果たす。同時に農林省畜産試験場勤務に復帰した。
敗戦による虚脱状態の中、研究環境、研究費の窮乏など筆舌に盡し難い困難な時代であった。次第に世相も落ち着きを取り戻し、研究生活も安定向上していく。
農業技術研究所(1950年 昭和25年)(機構改正)家畜部・畜産化学部(佐々木清綱博士 東京大学教授兼畜産試験場長)となってからは、従前に比べれば恵まれた研究環境となり学問系列による内部組織の変更に伴って各分野の基礎研究・技術は格段と進歩した。また、わが国の畜産は戦後食生活の向上に伴う畜産物の飛躍的な需要の増加と、成長産業としての畜産の基盤が確立し、畜産の技術や経営形態も近代化し、一層の発展が期待される情勢となっていき、農林省畜産試験場での研究活動もその成果は多方面に実用化されていく。その主なものは、各家畜の性成熟期に関する研究、発情とくに交配適期に関する研究、人工授精に関する研究等であって、その研究成果は戦時下、乏しかったわが国畜産資源の活用に役立つと同時に、畜産学の進歩にも大きく貢献した。
研究と密接な関係にあったわが国養豚の歩みについてみると、戦前には最高115万頭(昭和13年、1938年、主として中ヨークシャー種(約90%)とバークシャー種(約10%))にまで増加していたわが国の養豚も終戦後(昭和21年、1946年)には僅か9万頭弱にまで激減して壊滅的打撃を受け、史上最低の状態にまで落ち込んだが、その後徐々に回復し、昭和56年(1981年)には遂にわが国の豚飼養頭数も1,000万頭を超え、飼養規模の拡大、大型品種の輸入・増加と雑種利用、豚の資質・能力の向上、経営形態の変化、飼養管理方式の近代化、環境汚染問題、予防衛生技術の進歩、生産物流通の近代化等が相次いで行われ、わが国養豚の様相は大きく変貌した。
特記すべきことは当時「豚人工授精の技術」研究は諸外国に先駆けて、農林省畜試研究でほぼ確立された。
【豚人工授精の技術の確立】(世界の豚人工授精の発展に寄与)
日本における豚の人工授精は昭和13年(1938年)農林省(現農林水産省)畜産試験場(当時千葉市に所在)において始まり、その開始は世界的にも先進的地歩を占めていた。農林省畜産試験場では場長釘本昌二博士主導の下、昭和12年頃から各家畜・家禽の繁殖生理に関する研究が一斉に始まり、繁殖に関する一連の研究として「人工授精に関する研究」がきわめて精力的に行われ、すぐれた多くの研究業績が生れた。
昭和13年(1938年)から開始した豚の人工授精に関する研究は、約1年かかって人工膣による精液採取に成功してからは研究は順調にすすみ、数年の間に大体実用化の見通しがついた。具体的には、昭和14年に畜試式豚用人工膣が出来て精液の採取が可能となり、翌昭和15年に畜試式豚精液注入器の原型が出来上がった。これと並行して精液の性状に関する調注入精液量および精子数等に関する実験的研究を行い、実施方法に一応の見通しが得られた。
「豚人工授精の技術」はほぼ確立する。昭和24年には、第1回豚人工授精師講習会が開かれ、初の人工授精師が誕生している。当時の苦労は並大抵ではなかったが、懐かしい思い出である。その一証左として、丹羽教授は1961年オランダ国ハーグで開催された第4回国際家畜繁殖学会(参加54カ国)においてわが国の研究者として初めて特別講演者に指名され、20数カ年の研究業績を中心に「豚の人工授精における研究と実際」と題して基調講演を行った。(講演1時間30分のうち、終わりに17分間のトーキー(映画)「日本における豚の人工授精技術」をあわせて上映する(世界文化映画社))
精液の国際間輸送についても、東南アジアへ技術指導のため出張滞在した機会に日本─台湾間、日本─ビルマ間の豚精液輸送試験を実施した。日本─ビルマ間の輸送試験では精液採取から注入まで44.5時間〜76時間を要したが、21頭に人工授精して17頭が受胎し、その受胎率は80.1%で、豚精液の国際輸送に明るい見通しが得られた。
また、海外からの要請により豚の繁殖および人工授精技術を指導、紹介した国はオランダ、イギリス、スウェーデン、アメリカ、イタリー、ビルマ、中国(台湾)、フィリッピン、シンガポール、マレーシア、タイ、香港、ソ連、キューバ等におよび、わが国斯界の声価を高らしめた。
さらに農林省畜産試験場時代から始められた「家畜の改良(豚の系統造成)、育種(産肉能力検定制度)、繁殖(豚凍結精液の実用化技術)の研究」は50年の時を経て体系確立されていく。
【「ランドレース種」の導入と決断】(新品種導入についての提言)
戦前には最高115万頭(昭和13年1938年)であった豚の頭数は、終戦後(昭和21年1946年)には僅か9万頭弱にまで激減して壊滅的打撃を受け、史上最低の状態にまで落ち込んでいた。
1958年 昭和33年9月、若干42歳の一研究者、「丹羽太左衛門」は戦後の「日本の畜産の豚の品種改善増殖」という重大な使命(種豚購買)を受けてのヨーロッパ各国への視察出張を命じられる。
戦中、戦後の品種は「ヨークシャー種」90%、「バークシャー種」10%基幹品種の「二種」であった。長らく血液更新の機会がなかったことから、専門家が直接現地に行って輸入すべきとの強い希望があった。(社)日本種豚登録協会(会長 田口教一)並びに関係道県・市町の委嘱による。限られた期間で精力的に各国を視察、熟慮の結果、デンマークの「ランドレース種」の導入が我が国の養豚の発展に不可欠という決断をする。この提言は当時の日本養豚界としてはかなり大胆なものであった。そして「ランドレース・ブーム」といわれる時代を迎える。
「佐々木清綱 畜産学と五十年の想い出 1968年」
「20世紀における日本の豚改良増殖の歩み 畜産技術協会 丹羽太左衛門著 2001」より抜粋
この「ランドレース種」の導入で日本の品種は一変していく。
(品種の革命)
【産肉能力検定】
「ランドレース種」の導入により、次にわが国養豚の発展上、1日も早く開始する必要性を提案、丹羽太左衛門が以前より試案した「肥えい能力検定(現場検定)(1952年昭和27年発表)」が認められ、それにそって1959年(昭和34年)から、具体的に都道府県種畜場、家畜改良センターなどの協力のもと、全国的に技術的打ち合わせを行い、「豚の繁殖能力及び産肉能力検定」の研究の重要性を実証すべく、各研究者の献身的努力がなされた結果、7年間の試験研究を経てすぐれた遺伝的素質を持つ系統、個体を選び出すための制度の確立、実施へと研究成果を上げることが出来た。能力検定の実施は昭和11年(1936)年4月農林省畜産試験場に奉職以来、常にその実施を念頭に強く要望、啓蒙してきた大きなテーマの1つであった。その成績は良好で丹羽博士は安堵したと言われている。1960年(昭和35年)には日本産肉能力検定研究会の設立となり、昭和39年2月(社)日本種豚登録協会の豚産肉検定委員会に引き継がれる。特に豚産肉能力検定は戦前の準備期から半世紀以上にわたる長く困難な道のりであったが、全国養豚関係者一致団結の成果であり、これが登録事業と結びついて全国的な発展軌道に乗り、わが国の豚の改良育種に役立ったことはまことに感慨無量である。
「わが国における豚産肉能力検定事業50年の歩み(総括)」 丹羽太左衛門著 2010
20世紀における日本豚改良増殖の歩み 畜産技術協会 丹羽太左衛門著 2001
【産肉能力検定の波及効果】(昭和34年より「肥えい能力検定」の呼称を改める)
- 約10年後開始された「豚の系統造成事業」の実施
- 科学技術庁(昭和58年6月、1983年)関係各省からなる遺伝子資源の確保保存の対策「遺伝子資源の確保方策」
- 「遺伝資源保存事業(ジーンバンク)の整備」の推進への基礎となる
- 日中両国関係者の努力により畜産の分野にとって貴重な遺伝子資源である中国種の梅山豚と、わが国の優秀なホルスタイン種牛が友好理に交換された。
1958年(昭和33年)には欧州における産肉能力検定の実施状況の調査も行われている。
1958年(昭和33年)の種豚購買のヨーロッパ出張は、同時に特に当時豚の「日本の人工授精の技術力」はヨーロッパ各国より進んでいたことも広く知られることとなる。ケンブリッジ大学(イギリス)、ストックホルム獣医科大学(スウェーデン)などから請われて、数か国の大学、試験研究所・人工授精所等で説明とデモンストレーション、意見交換を行い大変喜ばれたという。そのことがなお一層日本の技術力を海外に広めることにもなった。また、その時期、米国ミネソタ大学客員研究員として滞在、ミネソタ大の旧知の研究者(Dr.Graham)と共に人工授精・凍結精液などの共同研究に打ち込み、活発な研究活動をすることができた。また、招へいによる国際会議・シンポジウム等への出席、基調講演をはじめ、海外への技術指導など活躍した。
農林省畜産試験場時代の精力的研究は広く海外でも注目され、一層研究・業績は日本の技術力として認められていく。
【全日本豚共進会】
昭和27年(1952年)3月には、全国養豚関係者の熱烈な要望があり、戦後初の第1回共進会が静岡県三島市において開催される。第10回は昭和59年(1984年)10月群馬県前橋市において開催されたのを最後(32年間)にオーエスキー病発生などの理由により中止となる。わが国養豚史上画期的な成果を収めた大事業であった。全国豚共進会は、わが国を代表する優秀な種豚肉豚が一堂に集まり、改良進歩の後を顧み、現在の水準を意識し、将来の方向性を示すとともに、種豚の選択、育種、飼養管理技術の反省・検討の場であり、関係者にとっては、こよなき研鑽と親睦の機会であった。
研究者は品種の改善と改良増殖へと力を注ぎ、貢献して行く励みになっていった。(第1回から第10回審査委員・審査委員長を務めた)
共進会開催は、豚の改良増殖に貢献することとなり、敗戦から立ち上がった我が国養豚関係者の熱意がひしひしと感じられるものだった。第5回、1964年(昭和39年)11月からは新たにランドレース種(L)が登場して、「3品種」に(この品種の登場はわが国養豚界に新風を吹き込んだものであった。)さらに第7回から、大ヨークシャー種(W)、ハンプシャー種(H)が加わり、さらに第8回からデュロック種が揃った。(中ヨークシャー種の出品品種は姿を消したことは、残念で寂しい限りであった。)
20世紀における日本の豚改良増殖の歩み 抜粋
諏訪院雑記(Ⅱ)「一国の畜産の力」より抜粋
日本の豚はもはや世界的水準であり、決して諸外国に劣らないとの印象を深くした。
【外国人参観者の見た日本の豚と豚共進会】
この全日本豚共進会は毎回全国各地からの参観者で連日賑わったが、第6回種豚共進会以降は諸外国からの視察国もふえ国際色豊かとなった。外国人参観者の見た日本の豚と共進会の所感の1部を紹介すると次のようであった。
1)第7回共進会(茨城県那珂町)には、英国からF.G.B.バーリング氏(ブリティッシュ・ライブストック・カンパニー取締役)、オランダからIr.Y.クロー氏(登録協会)、H.G.ヤンセン氏(オランダ家畜市場協同組合部長)、A.ド.ブルー氏(同部長)、米国からボブ・ハインズ氏(ミズーリ州、ハインズファームス代表)その他が来日され、終始きわめて熱心に出品豚の体型、資質や審査の結果を注視されていたが、審査の合間に出品豚についての印象を聞いてみたところ、オランダの人達は「ランドレースの経産豚についてはオランダのトップレベルと同じだ。しかし大ヨークシャーについてはわれわれの方が上だ」という。(筆者註:ランドレースは第5回共進会から登場しているが、大ヨークシャーについては輸入後日が浅く、今回(第7回)が初めての出品であった関係もあると思われる。)英国のバーリング氏は「日本の豚の改良が進んでいるのには驚いた。また共進会の規模、熱心さも大したものだ。今回出品の優等賞の中ヨークシャー2頭を是非英国に輸入したい」との注目すべき発言があった。筆者は英国のロイヤル・ショウや同国各地の共進会で中ヨークシャーの出品豚を度々見ていたが、当時、たしかに原産地の英国のものよりわが国の種豚のほうが量、質ともにすぐれていると思っていたが、奇しくもバーリング氏による「中ヨークシャーを日本から買い戻したい」との発言はわが国の中ヨークシャーが世界第一であることを裏付けしたもので正に感無量のものがあった。もしこれが実現していたら、現在どのようなことになっていたであろうか、わが国における中ヨークシャーの現状から見て心中まことに複雑なものがある。ついでながら筆者はバークシャーについても、わが国鹿児島県の英国系バークシャーの量と資質はおそらく世界第一で貴重なものであると思っている。
2)第8回共進会(静岡県御殿場市滝ヶ原高原)には、アメリカ、カナダ、西ドイツ、デンマーク、オランダ、ブラジル、台湾、香港など諸外国からの視察国を迎えて、きわめて盛大に開催された。視察の合間に感想をきいてみると「日本の種豚はすばらしい。改良が進んでいる。レベルも高い。管理技術も優秀だ。」とお世辞抜きに賞賛していた。また、「出品豚の資格に能力を加味していること、スキャナー(ゲージファット)などの応用による科学的審査は大変よいことだ。」と言っていた。なお、日本のシンボルであり、外国にも有名な富士山麓で行われたことも印象的だったようだ。
・20世紀における日本の豚改良増殖の歩み 抜粋
・諏訪院雑記(4)指導者の一言 抜粋
・諏訪院雑記(11)一国の畜産の力 抜粋
ランドレース輸入開始以来12年にして、わが国ランドレースの資質もほぼ固まったものと感じられた。
畜産共進会は「一国の畜産の力」のバロメーターである
【主な活動】
- 第1回極東家畜改良会議(1959年 昭和34年10月)東京
日本代表として(中家畜部門)の議長を務める - 第4回国際家畜繁殖会議(1961年 昭和36年6月)オランダ ハーグ
45歳の時この国際会議において日本から初めて基調講演者に指名される - 日ソ技術交流訪ソ農業視察団員として家畜の改良繁殖事業の状況視察
昭和40年6月〜7月(1965)(故河野一郎農林大臣時に締結される) - 全日本豚共進会開催 第1回 昭和27年(1952年)3月から第10回 昭和59年(1984年)10月まで連続審査員(第7回〜第10回は審査員長)を務める
農林省畜産試験場での研究活動は、後半の信州大学・岩手大学・東京農業大学へ引き継がれ、下記の通りにわたり、約50余年継続され体系確立される。
- 家畜の人工授精(わが国の豚人工授精の確立)
- 受精卵移植(豚凍結精液の実用化技術の確立)
- 家畜の改良(豚の系統造成事業の推進)・繁殖・育種(産肉能力検定)の体系確立
- わが国の豚枝肉・部分肉の格付規格の確立
- 日本養豚学会の((旧)日本養豚研究会)設立
【農林省畜産試験場及び同農業技術研究所畜産部時代の研究業績】
- 豚の繁殖に関する研究
- 雄豚の繁殖に関する研究
- 雌豚の繁殖に関する研究
- 人工授精に関する研究
1961年(昭和33年6月)オランダ国ハーグで開催された「第4回国際家畜繁殖学会」において我が国の研究者として初めて特別講演者に指名され、研究実績を中心に基調講演を行った。(世界の豚人工授精の発展に寄与)
- 豚の育種に関する研究
- わが国における豚の産肉能力検定の実施方法に関する研究
豚の系統造成に関する事業や枝肉評価の基礎技術として活用されており、豚枝肉の取り扱い、格付け、鑑識眼の向上・統一に役立つところ極めて多大であった - そのほかの豚の育種に関する研究
豚の改良育種に成果を上げ、種豚の選抜や登録の基礎資料となっている
- わが国における豚の産肉能力検定の実施方法に関する研究
- その他の豚に関する研究
子豚の人工哺乳、人工乳に関する研究、黄豚に関する研究、豚枝肉及び豚皮に関する調査研究、豚の肥育に関する試験研究などがある - 大型品種(ランドレース種、大ヨークシャー種)導入の提言
戦後、血液更新の観点から、種豚の選定・購入のため2ヶ月半渡欧する - 豚以外の家畜(牛・馬・山羊)の繁殖、人工授精に関する研究
- 和種牡牛の性成熟期に関する研究
- 牛精液の凍結保存技術に関する研究
- 山羊精液の冷凍保存ならびに凍結精液による授精試験
- 山羊における受精卵の移植(人工受胎)に関する研究
*これらの論文は業績目録に記載されている。
農林省畜産試験場では、日本風土に適した恒久的体系確立の為の「家畜の人工授精」・「受精卵移植」・「家畜の改良(系統造成)」・「繁殖・育種(産肉能力検定)の研究」に力が注がれた。
【教育・研究活動後半(約20年間)大学時代(信州大学・岩手大学・東京農業大学)】
1965年6月から1986年3月
1965年(昭和40年)6月信州大学農学部教授に招かれ、畜産学科、家畜育種・繁殖学講座を担当。さらに1967年12月に母校岩手大学農学部教授として迎えられ、畜産学科、家畜育種・繁殖学講座並びに大学院農学研究科畜産学専攻を担当した。1981年(昭和56年)4月1日、岩手大学教授を定年退官。後東京農業大学に移ってからも専門分野の研究活動を継続しながら同時に、卓越した学職と永年にわたる豊富な経験、国際的な広い視野から内外後進者の教育指導に献身した。
研究面における業績はすでに周知のとおりで、優れた数多くの研究論文や著者などを通じて斯界の先駆者として高く評価されているが、その業績は単に学問的貢献のみならず、わが国の畜産の振興、発展に大きな成果をもたらしている。
大学(20年間)に移ってからの研究は、優れた能力を持つ、種豚の精液の確保と保存「凍結精液(豚)の実用化技術の確立」であった。
【豚凍結精液の実用化技術の確立】
1971年度(昭和46年)から文部省当局の格別なご理解とご配慮により、筆者の岩手大学「家畜繁殖研究室」が「家畜人工授精研究室」として認められ、研究費の経常予算化と、同時に昭和46、47、48年度の3年間にわたり特別施設費の交付をいただき、お陰をもって研究環境の整備が整い、研究は、関係の共同研究者と共に一丸となって急速に進み、凍結精液研究の意欲はとみに高まった。その後1970年〜1980年の10年間は苦労の連続であったが、1980年までに錠剤化凍結法(ペレット法)で受胎に成功するまでの技術開発を行うことができた。
農水省主導による「豚凍結精液利用実用化促進事業」
第I期試験 1982年〜1984年
この第I期試験(3年間)は錠剤化凍結精液法(ペレット法)について行った。(社)家畜改良事業団・家畜改良技術センターを中心に、山形県立養豚試験場、群馬県畜産試験場、千葉県畜産センター養豚試験場、鹿児島畜産試験場の5県試験場が参加した。
第II期試験 1985年〜1987年
前3ヵ年(第I期試験)の成果を踏まえ、新たに3件の試験場(埼玉県畜産試験場、長野県畜産試験場、大分県農業技術センター)の参加を得て実用化確立のための事業を実施した。第II期試験においては、(大型ストロー法)を加え、また将来の実地応用を目指して県間交流試験も実施した。
なお丹羽は当時東京農業大学教授の職にあったが、本事業(第I期および第II期)実施中(昭和57〜62年)は(社)家畜改良事業団に委嘱されて技術の指導に当たった。凍結精液用希釈液および融解液の調製と改良は1970年(昭和45年)以降、1987年(昭和62年)に至るまでの研究(岩手大)および本事業(第I期、第II期試験)実施中最も苦心したものの1つである。
文科省の格別な配慮と農水省の主導による実用化促進事業の確立は、1970年以来約20年間にわたって続けられた努力の結果で、豚凍結精液利用技術が確立したことは喜びに堪えない。詳細は「豚凍結精液利用技術マニュアル(丹羽太左衛門監修、(社)日本家畜人工授精師協会発行,1989)」
凍結精液には、液状精液では得られない多くの利点がある。すなわち種豚改良への応用、貴重な品種および個体、希少品種の遺伝子の永久的な、家畜疾病の予防、適期授精および計画交配の実施、系統豚の維持および系統豚精液の県間交流による広域的利用、すぐれた能力をもつ種豚の精液の確保と保存、将来的にはわが国の優秀な豚凍結精液のアジア諸国への供給等々利用の途はきわめて広い。また最近進歩の著しい胚操作の分解でも大きな役割を果すこともあり得るであろう。
われわれは、研究の推進とともに得られた技術を如何に有効に利用するかを真剣に考えることもきわめて重要であることを忘れてはならないと思う。
なお、これらの研究の成果は随時国内および海外の関係学会に発表されたが、最終的には丹羽教授の定年退官時(昭和56年4月1日)に全成果を3巻の「岩手大学農学部家畜人工授精研究室報告(岩手大農・人工授精研報)Bulletin of the Laboratory of Artificial Insemination, Iwate University. Nos .1.2.3. ,(1981)」にまとめて印刷公表し、文部省、各大学並びに関係方面に贈呈された。この3巻の研究報告には岩手大学在勤中になされた原著論文22編と研究短報71編が掲載されているが、その概要は下記のとおりである。
岩手大農・人工授精研報の内容
原著論文 | 研究短報 | 総頁数 | 発行年月 | |
---|---|---|---|---|
第1号 | 7編 | 34編 | 122頁 | 1981.1 |
第2号 | 10編 | 26編 | 108頁 | 1981.3 |
第3号 | 5編 | 11編 | 49頁 | 1981.3 |
【主な原著論文】
- 錠剤化法による豚精子の凍結保存に関する研究1)凍結および融解の方法について 2)融解後の精子生存性および精子アクロソームの形態について 3)融解液中の各種添加物が精子の生存性およびアクロソームに及ぼす影響について 4)自国産および輸入豚凍結精液の性状と精子生存性について 5)受胎試験成績について
- 豚精子の微細構造について
- 凍結処理過程における豚精子の微細構造の変化について
- 豚精液の凍結および融解過程の低温顕微鏡的観察
- 牛精液の凍結保存に関する研究1)グリセリン平衡時間について 2)グリセリン平衡時間と精子の生存性および代謝能力との関係について
- 豚精子の保存中における細胞内酵素、とくにGlutamic oxalacetic transaminase(GOT)およびHyaluroniderseの消長について
- 牛および豚精液中のProstaglandine F2a(PGF2a)の存在について
- Prostaglandine F2a の投与が 1)豚の精液性状、2)牛の精液性状、3)牛の精子生存性に及ぼす影響について
- 豚精液の低温(5℃)保存に関する研究
- Estrous behaviours and plasma levels of lutenizing hormone, progesterone and estradiol-17 β in sows
- 直腸検査法による豚の早期妊娠診断に関する研究
- 生検による豚の膣粘膜の組織学的研究
- Prostaglandine F2a-analogue による豚の分娩誘起と分娩前後における血中progesterone濃度の消長について
- 血漿および乳汁中progesterone濃度の測定による牛の早期妊娠診断について
- 分光光度計による豚精液の精子数簡易急速算定法について
以上は家畜、とくに豚の繁殖生理と人工授精に関する研究成果であるが、「錠剤化法による豚精子の凍結保存に関する研究」は約10年間にわたり精力的に行われた結果、技術的にはほぼ完成し、実用に適する段階に達したので、後述の如く昭和57年度から6ヵ年にわたり農林水産省畜産局家畜生産課主導の下に「豚凍結精液実用化促進事業(第I期試験)」および「豚凍結精液実用化確立事業(第II期試験)」として実施された全国的プロジェクトの基礎的資料として採り上げられ、「わが国における豚凍結精液利用実用化の確立」に大きく貢献することが出来た。(豚凍結精液利用技術マニュアル 丹羽太左衛門監修 1987)
大学時代
信州大学時代(2年半)
【教育】
昭和40年6月、丹羽先生は文部省出向となり、請われて信州大学農学部教授に転勤し、畜産学科の家畜育種・繁殖学講座を担当されることになった。この講座の前主任教授は有名な三村 一先生で、同学部畜産学科の創設者であるばかりでなく、農学部長、さらに信州大学(8学部から成る)の学長となられた人格者で、ご専門は鶏の生殖生理であり、日本畜産学会名誉会員でもあられた大先生であった。
当時、信州大学農学部畜産学科は4講座(家畜育種・繁殖学、家畜衛生学、家畜飼養学、畜産物利用学)で、家畜育種・繁殖学講座の構成員は丹羽教授、吉田元一助教授、登内徳一郎講師の3名と女子事務員だけであった。丹羽教授は畜産学概論、家畜品種学、家畜繁殖学のほか、家畜人工授精論を新設してその講義および実験実習を担当し、登内講師は家畜繁殖学関係の教育および実験実習に協力された。家畜育種学関係は吉田助教授が担当した。
また、畜産学科4年次生に対し家畜改良増殖法に基づく家畜人工授精師(牛・豚)の免許資格を取得させるため、種雄牛については長野県畜産試験場の協力を得、種雄豚については研究所に隣接した豚舎にとりあえず2〜3頭の種雄豚を飼育して、精液の採取、処理、保存、注入等の研究と実験実習に必要な最小限の設備を整え、雌牛と雌豚については学部内農場の繁養家畜を使わせてもらうことにして事業を開始し、在任中(2年半)に2回の農林大臣指定による家畜人工授精師(牛・豚)養成講習会を開催し、約60名の授精師を養成した。
【研究】
丹羽教授は畜産学の教育および研究と地域関連機関との関係を密接にするため登内講師と頻繁に長野県畜産試験場(塩尻市片丘)に通って牛凍結精液に関する共同研究を行い、夜を徹することもしばしばであったが、場長さん以下係の方のご理解とご協力でかなり成果が得られた。豚の人工授精については同試験場大澤 保氏らによって実地応用試験が実施されていたのでできるだけの協力を行った。
畜産学科在籍中に特筆すべき思い出としては、昭和41年10月、ソ連政府からハリコフ畜産研究所のDr.Ostaskaほか2名の研究者が日本式豚人工授精技術習得のため来日し、丹羽教授の研究室を訪れて研究状況の視察と実技の研修を行った。同時に、畜産学科全学生に対して「ソ連における家畜の繁殖および人工授精について」特別講演を行い、また佐久市にある長野県経済連種豚場(元長野県種畜生産公社)や伊那市の西尾人工授精所(西尾正二氏経営)等を視察して帰国した。これは、昭和40年6月丹羽教授が信州大学赴任直前に、農林技官(農林省畜産試験場繁殖第一研究室長)兼信州大学教授の身分で日ソ農業技術交流に基づく訪ソ農業視察団(家畜改良繁殖班、4名)の1員として訪ソし、技術交流を行ったことに対するソ連国側の対応で、当時としては外国とくにソ連学者の地方大学訪問は珍しく学生に国際交流の実感と刺激を与え、話題になった。
信州大学在任中の主な研究としては、豚の人工授精とくに精液の保存に関する研究、牛精液の凍結保存に関する研究(長野県畜産試験場の協力による)のほか、登内講師や4年次専攻学生と共に約1年間、伊那屠畜場に通って「雌豚生殖器の形態学的調査」をまとめた。
信州大学での在勤は2年半(昭和40年6月〜同42年11月)であったが、風光明媚なキャンパスで、教育研究共に軌道に乗りつつあり、学内および地域関係機関、周辺畜産農家の方々とも馴染み、次第に成果があがりつつあって楽しい日々であったが、いっぽう岩手大学農学部から転任招請があり、懇望もだし難く昭和42年11月末、思い出の伊那市を去られた。
岩手大学時代 (14年間)
【教育】
岩手大学教授への発令は昭和42年12月1日(1968年)であったが残務整理、引っ越し等の関係もあり、実際的活動は昭和43年1月からであった。畜産学科は4講座(家畜改良学、家畜飼養学、飼料学、草地利用学)から成り、丹羽教授の担当は家畜改良学講座で、前任者は進藤武男先生であった。なお畜産学科、獣医学科の新校舎は昭和43年4月に完工した。
着任時の講座名は家畜改良学であり、教科目は畜産学、畜産育種学、畜産繁殖学と家畜改良学実験実習だけであったが、これでは内容的にも不十分と考えられていたので、昭和43年度から講座担当の教科目を畜産学汎論、家畜品種論、家畜育種論、家畜繁殖学、家畜人工授精論、推計学(選択)、家畜育種実験実習、家畜繁殖学実験実習、家畜人工授精論実験実習(選択)に増加した。教科目が一挙に2講座分くらいの分量に増えたので、その準備や実施にはかなりの苦労があり、体力的にもほとんど限界であったが満足感はあった。(その他の必要科目は関連他学科の教官や講師から講義と実験実習を受ける仕組みになっていた。)
昭和43年4月には大学院農学研究科畜産学専攻(修士課程)が開設され、以後毎年講座に2名程度の大学院生が入学してきたので、研究室は賑やかになった。このころから中南米・東南アジアの各国からの研究者、留学生も受け入れ、指導も行った。学部および大学院の講義と実験実習のうち繁殖関係は丹羽教授が、育種関係は安田泰久助教授が担当した。
そして、昭和44年度から家畜改良講座は将来2講座に分離独立する希望をこめて講座名を家畜育種・繁殖学講座と改めた(この希望は丹羽教授定年退官後1年でようやく実現し、動物育種学(獣医学科とのブリッジ講座)と家畜繁殖学の2講座となった)。
また、丹羽教授着任以来、毎年正規の講義・実験実習以外に家畜改良増殖法に基づく家畜人工授精師(牛・豚)養成講習会を夏休み、または冬休み期間を利用して開催し、定年までの間に合計249名の家畜人工授精師を養成した。
岩手大学の所在する盛岡市周辺には畜産学や獣医学の教育・研究に好適する多くの施設があり、これらを畜産学の教育や研究に活用させて頂くことが出来たのは誠に幸いなことであった。すなわち、国の施設としては、農林水産省東北農業試験場畜産部・草地部、岩手種畜牧場(現家畜改良センター岩手牧場)、(社)家畜改良事業団盛岡種雄牛センター(人工授精センター)、岩手県畜産試験場、県経済連、畜産会等の諸施設、小岩井農場等々があり、畜産・獣医学教育研究の好適地であった。
【研究】
丹羽教授は、講座の家畜繁殖学研究の主たる対象を家畜の人工授精とこれに関する家畜繁殖分野の研究におき鋭意努力を続けたが、昭和43年頃は研究室の設備も貧弱であったし、人員も不足で、講義および実習の忙しさもあって、研究の遂行はきわめて困難な状態であった。
豚凍結精液の実用化技術の確立
昭和13年(1938年)豚人工授精の研究開始(農林省畜試)から昭和43年頃まで豚人工授精に関する研究は「液状精液」が中心であった。
昭和40年6月〜同56年(1981年)3月(岩手大)の在籍中、幸いにも昭和46年度(1971年)から文部省当局の格別な理解と配慮により「家畜人工授精研究室」として認められ、研究費の経常予算化と、同時に昭和46、47、48年度の3ヵ年にわたり特別施設費の交付をいただき、お陰をもって研究環境の整備が急速に進んだ。それにより精力的に「凍結精液」の研究が進められた。その後さらに10年間「家畜人工授精研究室」としての特別な配慮で予算が交付される。それに応え得るだけの研究成果をあげるべく心血を注いだ。昭和46年12月には付属農場から佐藤鉄郎技官が講座要員として着任し、また昭和53年度に至って助手1名が認められ橋爪 力修士が着任したので研究と実験・実習にゆとりが出来た。そして1980年(昭和55年)「錠剤化凍結法」(ペレット法)で受胎に成功した。「豚の凍結精液の実用化技術の確立」に向けて関係の共同研究者と一丸となって、研究室は俄然活気を帯び成果をあげることが出来た。
研究の成果は随時国内および海外の関係学会に発表されたが、最終的には丹羽教授の定年退官時(昭和56年4月1日)に全成果を3巻の「岩手大学農学部家畜人工授精研究室報告(岩手大学・人工授精研報)Bulletin of the Laboratory of Artificial Insemination, iwate University. Nos.1.2.3.,(1981)」にまとめて印刷公表し、文部省、各大学並びに関係方面に贈呈された。この研究報告には岩手大学在勤中になされた原著論文22編と研究短報71編が掲載されている。
【主な活動】
第4回国際養豚獣医学会議(IPVS)(1976年6月 アメリカ、アイオワ州立大学)開会式総会において「東洋における豚肉生産について」の基調講演を行う。(この国際会議で、アジアから基調講演者を指名されるのは初めてのことであった。)
IPVS基調講演
東京農業大学時代(33年間)
丹羽教授は、1981年(昭和56年)4月1日岩手大学を定年退官し、翌4月2日付で東京農業大学教授(嘱託教授)となり、総合研究所勤務となった。当時の東京農業大学総合研究所は大学と並ぶ独立した大きな機関で(現在は大学の農学部所属となっている)農業に関する国内の総合的な諸研究のほか、東南アジア各国の農業教育、農学研究の指導等広汎な内容を持ち、また東南アジア農業大学の教育、研究の拠点校として重要な任務を持つ研究所であった。
所長はその道の権威者として令名の高い杉 二郎博士(大学理事、東京大学名誉教授、東京農業大学名誉教授)で、雄大な構想の下に着々として仕事が進められていた。
当時の内部機構として資源生物研究部、環境研究部、共通研究部等があり、丹羽教授は資源生物研究部に所属した。資源生物研究部には動物系と植物系とがあり、丹羽教授は将来のバイテクをにらんだ動物系関係の研究室設備に努力した。いっぽう学部(畜産学科)学生に対しては家畜人工授精論の講義を行うほか、非常勤講師時代(昭和28年以降)と同様夏季および冬期休暇中に家畜人工授精師(牛・豚)養成講習会を行った(昭和28年以来農大教授定年退職(昭和61年3月)までに同大学で養成した家畜人工授精師数は約1,300名に上り、各方面で活躍している)。
さらに昭和57年12月からは大学院指導教授として講義および論文指導を行い、また国の内外から提出される学位請求論文の審査に当った。
【研究】
研究は主として本学厚木農場と畜産学科の畜舎に繁養されている種雄豚を用いて門司恭典助手(現助教授)や学生諸君と共に豚の人工授精とくに凍結保存に関する研究を行った。また、台湾省畜産試験所から導入したアジア系在来種の桃園種について田中一栄教授、鈴木伸一、門司恭典各助教授、吉田 豊講師らと共に育種、繁殖関係の研究を行い、他の分野については他大学の教官とも共同研究を行った。
昭和56年4月に東京農業大学教授(嘱託教授)に就任以来早くも5年間の月歳月が流れ、停年(満70才)に達したので、昭和61年3月に退職し、同年7月から東京農業大学客員教授を委嘱されて今日に至っている。
撮影 田中 一榮(東京農業大学名誉教授)
その後
昭和63年4月から岩手県立農業短期大学校(岩手県胆沢郡金ヶ崎町大字六原字蟹子沢14)に新設された生物工学科(農業短期大学校、農業短期大学等の本科卒業生、またはこれと同等以上の学力があると認められる者を入学資格とする1年課程の学科で、植物コースと動物コースが設けられている)の顧問教授(非常勤)を委嘱されている。
大学等の非常勤講師(兼職)
- 千葉高等園芸高校(のち千葉農業専門学校と改称、畜産学担当、現千葉大学園芸学部、昭和14〜22年度)
- 宇都宮大学(農学部、隔年、昭和37年度〜63年度)
- 岩手大学(農学部、昭和41、42年度、農学部および大学院農学研究科。昭和56年度〜61年度)
- 富山大学(教育学部、昭和42年度)
- 帯広畜産大学(畜産学部、昭和43年度)
- 山形大学(農学部、昭和56年度)
- 東京農業大学(農学部畜産学科、昭和28年度〜55年度)
- 農林省農業者大学校(昭和46年度〜48年度)
- 岩手県立農業短期大学校、岩手県立六原営農大学校、岩手県立短期大学校(昭和43年度〜55年度)